鏡石鹿嶋神社
電話:(0248) 62-1670

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御祭神
御祭神

武甕槌命

(たけみかづちのみこと)

当社の御祭神は、日本建国・武道の神様であり、勝利の神さまと云われております。
邪魔するものをはねのけ進む力があるとされ、開運、商売繁盛、家内安全、そして起業や転職、新たにチャレンジを勝ち取るから、出世などにもご利益があるといわれております。
また、「鹿島立ち」から旅行安全、交通安全、「鹿島帯」から安産、縁結びなど多岐にわたっております。

由緒

 当社の御祭神である武甕槌命の当地における信仰は篤いものがありました。武甕槌命は、天照大神から地上世界の統治を命ぜられた皇室の祖先・瓊瓊杵尊の降臨に先立ち、地上世界の平定のために降臨した神様です。出雲大社に祀られる大国主命と交渉し、国譲りを成し遂げた武の神であり、その後東国を平定し、茨城県の鹿島神宮にお祀りされました。平安時代に成立した『延喜式神明帳』には、「神宮」と称されたのは、伊勢の神宮の他には、鹿島神宮と香取神宮のみであり、その御神徳の高さがうかがえます。

今から約五百年前の元亀2年(1571)に高久田村総鎮守として創建されました。陸奥国の岩瀬郡を支配していた二階堂氏の家臣で、当地高久田村の館主だった箭部紀伊守公為(とめため)公は、鹿島神宮を篤く崇敬しており、戦国の世にあって領地の平安と敵軍を撃破のために、この地に鹿島神宮の御分霊を勧請したと云われています。

当社においては、五大院が別当(宮司代行者)となり、その後、二階堂氏が没落すると館主箭部紀伊守も滅び、社領は廃地となり社運も衰退しました。

しかし、廃地後も当社は村民の赤誠によって守られ、安永7年(1776)には新たに別当となった覚宝院から社殿再建のための『鹿島社再修願文』が出され、社殿が再建されました。文化元年(1804)に記された届書によると、当時の当社の境内の様子は、本殿は4尺4方内法(0・44坪)、拝殿は2間に3間(7・5坪)、社地は、数百五十間四方だったと記されています。例祭日は現在と異なり、7月10日と9月9日だったようです。明治時代になると神仏分離令によって、覚宝院は鹿島神社と分離し、明治2年(1869)、覚宝院の僧侶は神職に復飾(還俗)することとなりました。当社は村社として村民の崇敬を集めますが、明治35年(1902)9月28日の暴風雨によって社殿が倒壊しました。しかし、翌年4月には氏子たちが力を合わせて現在の社地に担いで遷し、復興されました。当社に奉納された「遷宮絵馬」にはその時の遷宮の様子が描かれています。

旧社地には高さ3メートル、周囲6メートルの巨石があり、ほかひ石と呼ばれています。この霊石の由来は定かではありませんが、古代から続く巨石信仰のひとつと考えられます。ほかひ石の頂上には石灯籠があり、毎年水神が当社の御祭神にお供物を捧げる台と伝えられます。

例祭日は10月15日でしたがその後、農繁期と重なることから現在の10月1日に改められました。明治22年(1889)には、鏡田村・久来石村・笠石村・成田村が合併し、鏡石町の前身である鏡石村が誕生しました。これは旧村名を合わせた名称ですが、鹿島神宮の本殿奥にある鏡石と呼ばれる霊石に通じる名称でもあり、当社との由来の共通点が「鏡石」の地名誕生の一因だったとも云われています。

現在の社殿は、本殿一坪の流造、拝殿は7・5坪の入母屋造で、天満神社、熊野神社、水神社、稲荷神社、若木神社、金比羅神社、松尾神社、八坂神社、弁天様、大山祇神社の十社の末社があり、人々のさまざまな思いが当社にて祈願されました。平成13年には、参集殿が建設されました。この参集殿では祭事の控え室としてのみならず、絵画展などのイベントが行われ、地域の文化の発信地として親しまれています。当社は昔から変わらず現在も、人々の崇敬を集め地域を守護しております。

天井絵<羽柴正和>
天井絵

「中丸桜の図」124x210cm 平成12年
当社拝殿の天井絵は日本画家 羽柴正和氏よりご奉納。

狛犬・神饌具<一重孔希>
狛犬

「狛犬」

神饌具

「神饌具」
陶芸家 一重孔希氏より平成12年にご奉納

絵馬
絵馬

「遷宮絵馬」
氏子たちが力を合わせて現在の社地に担いで遷す様子が描かれています。

鏡石鹿嶋神社
〒969-0401
福島県岩瀬郡鏡石町鹿島379番地
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